生きる意味などもともとないのだ

小児科医、新生児科医として、沢山の赤ちゃんの”死”に立ち会って思うことがある。それは、人にはもともと生きる意味などないのではないか…ということだ。

織田信長や徳川家康、坂本龍馬の人生には意味があったように感じる。本人たちがそう考えていたかはわからないが、彼らは正に歴史を動かした人物だし、彼らがいなかったら今の日本はないわけだから…。でも彼らは何かを成し遂げたから生きる意味があって、何も成し遂げられなかった人は生きる意味がなかったということなのだろうか。

生まれてきて直ぐに亡くなってしまう赤ちゃんがいる。例えば、色々な病気を持って生まれ大手術を繰り返し行い、結局すぐに亡くなる赤ちゃんもいる。彼らは生きてきて良かったと思っていたのだろうか…。例え短い間だったとしてもきっと生まれてきて良かったと思っているに違いない、家族に会えて良かったと思ってるに違いない、そう思う、思いたい反面、おうちに帰りたかっただろうな・・・とか、こんなことも経験させてあげたかったな・・・とか、どこか結果に納得できない自分もいて、彼らの生まれてきた意味を自らに問うと、複雑な気持ちになることもある。

例えば生まれてきて、生きて家族に会うこともなく亡くなってしまった赤ちゃんさえいるわけだけど、彼らはどうだろう。家族に会えて良かったという生きる意味さえなかっことになるのだろうか…。生きる意味ってなんなんだろう。長生きすることが必ずしも一番の目的ではないけど、とてもとても儚いその人生をみると、それでも本当に良かったのだろうかと締め付けられる思いが溢れてくるのだ。

一方で、五体満足で生まれながら、生きる希望をもてず、自分の生きる意味を見いだせず、その人生を自ら終わらせる人も決して少なくない。そのような人は程度の差こそあれ、抑うつ状態になっているので、不安や孤独感、無力感にさいなまれて、そのような判断をせざるを得なかった人なのだと思う。ただ一方でこうも思う。そもそも”生きる意味”がないと生きてはいけないのだろうか。何かを成し遂げなければ、何か意味のあることをしなければ、生きる価値がないのだろうか。

私たちは皆生まれ、そして必ず死んでいく。何かができたから、何かを成し遂げたから生きる意味があって、そうでなければ生きる意味はない、そういうことではないような気がする。中学生くらいの多感な時期は、自分の生きる意味についてよく考えたものだ。僕はなぜ…何のために生まれてきたのか…と。きっと僕が生きることには何らかの意味があって、その生きる意味みたいなものを実感して生きることが、自分の幸せにつながるのだと思っていた。誰か大切な人に出会うために、何か大好きなことをするために、何かを成し遂げるために、自分は生まれてきた・・と思えたらどんな幸せだろう。でも、そんなものを実感しながら生きている人などそんなにいないのではないだろうか…。一時的にそのような気持ちになることはあったとしても、そのような気持ちは周囲の状況によっては変わってしまう儚いものであることがほとんどである。

そもそも生きる意味など、後付けでしかないのだと思う。生まれてすぐに亡くなってしまった赤ちゃんが本当に幸せだったのかどうかは誰にもわからない。誤解を恐れずにいうと、ご両親に会うこともなく死んでいった赤ちゃんの人生に本当に意味があったのかはわからない。でもそれって私たちの人生も同じではないか。でもそれでいいんだと思う。生まれてきたという事実があるのなら、いや生まれる前に途中で亡くなってしまった命だとしても、少なくともそこに至る過程には必ず両親の存在がある。生まれた時点、いや生まれる前から誰かに必ず影響を与えている。あの子が病気と闘った記憶は僕の中に残っている。いつかその記憶が薄れてなくなったとしても、それは僕の感じ方を、行動を少しだけ変えたことだろう。そして、それは僕と関わった人に伝わっていく。それで良いんだと思う。生きるとは結局のところそういうことだと思うから…..

生きることにもともと意味なんてない。生きるということは、誰かと関わりを持つということ。もちろん自分にとって大切な何かを見つけることができたら幸せだけど…。生きる意味は後付けでよい。もともとそんなものはないのだから…。少し寂しいような気もするけど、それでよいのだと思う。もしその力が残っていれば、与えられた制限の中で、自分の好きなことを精いっぱい頑張れば良い。誰かに関わって生きていけばよい。それこそが”生きる意味”なのだから…..。

僕はそう思う。

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